子どものころ、「かごめかごめ」で輪になって、まん中の子のまわりをぐるぐる回った。休み時間には、地面に棒で大きな丸を描いて、けんけんぱをした。誰に教わったわけでもないのに、遊びの中にはいつも丸がありました。
曼荼羅(まんだら)の多くも、丸いかたちをしています。始まりも終わりもない円は、昔から世界のあちこちで、特別な意味をこめて描かれてきました。
この記事では、なぜ曼荼羅は丸いのか、円や迷宮(ラビリンス)に人がどんな思いを重ねてきたのかを、たどってみます。ふだん何気なく目にしている丸いものが、少しちがって見えてくるかもしれません。
1 丸や円という形
「丸・三角・四角」のような図形を組み合わせた模様を、幾何学模様(ジオメトリック・モチーフ)といいます。こうした模様は、世界各地のずっと古い時代の土器や織物にも見られます。
中でも丸は、曼荼羅のもとになっている形です。始まりも終わりもないことから、完全さや永遠をあらわす形として、多くの文化で大切にされてきました。めぐる季節や、命のめぐりを重ねる人もいます。
円は、古くから宇宙や天をあらわす形としても描かれてきました。
2 社会形態と丸と円
人は、集まってつながりをつくります。
そのことを「輪をつくる」「円陣を組む」と言いあらわします。
人の集まりは、言葉の上でも丸いのです。
盆踊りでは輪になって踊りますし、子どもは輪になって遊びます。その輪に入りたい、と感じたことのある人も多いでしょう。
丸や輪は、人の心を引きよせる形でもあるのです。
「サークル」という言葉も、もとは「輪」のことです。輪になると、ひとりでは出てこなかった力が生まれることがあります。
輪には上座も下座もなく、誰もが同じ距離で中心を向いています。だから、一体感や「おたがいさま」の気持ちが生まれやすいのかもしれません。
3 文化にある円形
古くから、円は神々とのつながりの強い形でした。
たとえば、ローマのパンテオン。神々をまつる神殿として建てられ、いまの建物は2世紀に建て直されたものです。丸い大広間には、直径約43メートルの球がすっぽり収まる造りになっていて、天井のまん中の丸い穴から空が見えます。
神に仕える人も、この形に心を寄せました。12世紀ドイツのベネディクト会の修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、自分が見たまぼろしを、円を中心にした細やかな絵に描き残しています。
ヒンドゥー教や仏教でも、それぞれの伝統のやりかたで、古くから曼荼羅が描かれ続けています。
アメリカ先住民のナバホの人々は、色のついた砂で円い絵を描き、癒しの儀式に用いてきました。籠細工などにも、曼荼羅に似た模様が見られます。
ケルトの結び目模様には、切れ目なくつながる線に、命の永遠や、人と植物・動物とのつながりを重ねる見かたがあります。
円は、多くの文化で、人の手の届かない大きなものをあらわす形だったのです。
4 迷宮とその意味
迷宮のことを、ラビリンスといいます。円を基本にした形が多く、これも曼荼羅の仲間といえる形です。
この迷宮は、どこから始まったのでしょうか。
ラビリンスという名前は、ギリシャ神話に由来します。
名工ダイダロスが、クレタ島のミノス王に頼まれてつくった入り組んだ建物が、ラビュリントスです。
つくられたのは、頭が牛でからだが人間という怪物ミノタウロスを閉じこめるためでした。
ミノタウロスは、やがて英雄テセウスに迷宮の中で倒されます。
このように、ラビリンスには、もともと恐ろしいものを閉じこめる場所、という意味もありました。
ラビリンスの模様は、スペインのポンテベドラの岩絵をはじめ、ヨーロッパや地中海のあちこちに古くから残っています。
4−1 心の中の迷宮
やがてラビリンスは、救いや心のよりどころを探す道のりにたとえられるようになりました。
中世のヨーロッパでは、フランスのシャルトル大聖堂のように、教会の床にラビリンスが描かれ、人々はそれを祈りながらゆっくり歩きました。
昔から伝わるラビリンスは、行き止まりのある「迷路」とはちがい、じつは一本道です。何度も折り返し、中心に近づいたかと思えば遠ざかる。それでも歩き続ければ、必ず中心にたどり着くようにできています。
暮らしの中でも、遠回りばかりしているように感じる時期があります。
でも、行ったり来たりしているように見える道も、ちゃんとどこかへ続いている。ラビリンスは、そんなふうに人生を重ねて眺めることのできる形です。
5 丸を生きるということ
人の一生を、ライフサイクルといいます。
めぐる命は、人間だけでなく、生きものすべてに共通しています。
たとえば植物は、土に落ちた種から始まります。
土と水と日の光で育ち、花を咲かせて実をつけると、やがて枯れていきます。枯れた葉や茎は土にかえり、そこからまた新しい命が育ちます。森の落ち葉の下では、いまもこのめぐりが続いています。
人も、生まれて育ち、大人になり、年を重ねて、やがて一生を終えます。
仏教やヒンドゥー教には、命は生まれ変わりながらめぐる、という「輪廻(りんね)」の考えがあります。
人の一生を、円の中心から外へ広がり、またもとへ戻っていく曼荼羅のように見る捉えかたもあります。
一生には終わりがあります。けれど、それまでのあいだに、誰かに手わたせるものがあります。
何かを残せるのは、偉い人だけではありません。
家族に伝えた料理の味や、誰かにかけたひと言のように、ささやかなものが次の人へとつながっていく。それも、ひとつの円のめぐりなのだと思います。
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6 まとめ
雨の日に、水たまりにぽつんとしずくが落ちて、丸い輪が広がっていくのを、じっと眺めていたことはありませんか。輪はゆっくり大きくなって、となりの輪と重なり、やがて静かに消えていく。見ているうちに、こちらの気持ちまで静かになっていました。
円は、宗教や芸術の中だけにある特別なかたちではありません。木の年輪、水の輪、花の中心、輪になって話す人の集まり。昔の人は、身のまわりにある丸を観察して、そこに「つながり」や「めぐり」を見てきたのだと思います。
公園で切り株を見つけたら、年輪を指でそっとなぞってみる。一年にひとつずつ増えていった輪の幅は、雨の多い年も、日照りの年も、そのまま残しています。
丸いものを眺めていると、気持ちの角も、少し丸くなります。
そういう時間のつくりかたを、林浴(りんよく)と呼んでいます。


