仕事の帰り道に実家へ寄り、母の一週間分の薬を仕分けてから、自分の家へ向かう。駐車場に車を停めて、エンジンを切る。それなのに、すぐにはドアを開けられない。家に入れば、夕飯の支度と、誰かの「ねえ」が待っている。あと五分だけ、ここに座っていたい。
職場では「これ、どうしたらいい?」と聞かれ、実家では「あんたがいてくれて助かる」と言われる。頼られるのは、嫌なことではない。むしろ、ずっとそうやってきた。けれど五十代になって、ふとした瞬間に「一人になりたい」と思うことが増えた。そんな自分に、少し後ろめたさを感じている人もいるかもしれない。
ここでは、その「一人になりたい」という気持ちを、責めずに眺めてみたい。そして、忙しい毎日のなかで、ほんの少し一人になれる場所のことを書いてみる。
1 一人になりたいのは、冷たいからではない
頼られる人の頭のなかには、いつも誰かの予定が入っています。母の通院の日、職場の新人のシフト、家族の帰りの時間。自分のことを考えようとしても、気づけば誰かのことを考えています。
「一人になりたい」と感じるのは、家族や周りの人が嫌いになったからではありません。誰かの声で頭がいっぱいになって、自分の声が聞こえにくくなっている。そのことに、からだのほうが先に気づいているのだと思います。
昔の人も、ときどき一人で野山を歩き、お寺や神社に詣でてきました。一人になる時間は、わがままでも特別なことでもなく、人がずっと必要としてきた時間です。
2 頼られる人ほど、休み方がわからない
頼られる人は、たいてい面倒見のいい人です。そして、人の痛みがわかる人でもあります。自分もつらい思いをしてきたから、誰かが困っていると放っておけない。相手の顔色が少し曇っただけで、先に気づいてしまう。
けれど、人の痛みにはすぐ気づけるのに、自分の痛みには、いちばん最後に気づきます。
頼られることに慣れている人は、休むことがあまり得意ではありません。休みの日も、気づけば洗濯をして、買い物に行き、実家に電話をかけています。「これくらいで弱音を吐いてはいけない」と、自分に言い聞かせてしまうこともあるでしょう。
そうして何年も過ごしてくると、「何もしない時間」の過ごし方が、だんだんわからなくなっていきます。一人になりたいのに、いざ一人になると、何をしたらいいのかわからない。それは、あなたがおかしいのではなく、それだけ長く、誰かのために動いてきたということです。
親の介護の負担が大きくなってきたときは、お住まいの地域の「地域包括支援センター」に相談することもできます。頼られる人が、誰かを頼っていい場所です。
3 ほんの少し、一人になれる場所
一人になるために、どこか遠くへ行く必要はありません。
- 帰り道に、ひと駅ぶんだけ歩いてみる
- 近所の公園のベンチに、五分だけ座る
- 朝早く、人の少ない神社の境内を通ってみる
- 車の窓を開けて、外の風と音を入れてみる
どれも、誰かに断りを入れるほどのことではありません。そのくらいの小ささで、ちょうどいいのだと思います。
4 木は、何も頼んでこない
公園のベンチに座っていると、ふと、頭上の木に目がいくことがあります。葉が風に揺れて、ときどき鳥の声がする。それだけのことなのに、少し肩の力が抜けていきます。
木は、こちらに何も求めてきません。
話しかけてこないし、相談もしてこない。こちらが黙って座っていても、気をつかう必要がない。頼られることに疲れた人にとって、それはとてもめずらしい、ありがたい相手なのかもしれません。
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5 まとめ
子どもの頃、押し入れのなかに入って、戸を少しだけ開けて過ごしたことはないだろうか。外から聞こえる家族の話し声が、少し遠くなる。暗くて、布団の匂いがして、誰にも見つからない。あの小さな場所は、たぶん、一人になるための最初の場所だった。
大人になった今、押し入れに入るわけにはいかない。けれど、帰り道のベンチや、窓の外の一本の木が、あの頃の押し入れの代わりになってくれることがある。頼られることに疲れた日は、誰にも頼られない五分を、自分にあげてもいいのだと思う。
そういう時間のつくりかたを、林浴(りんよく)と呼んでいます。


