昼休みに、コンビニの袋をさげて公園の前を通る。ベンチがひとつ空いている。座りたい。でも、座ったら最後、もう立ち上がりたくなくなる気がする。結局そのまま職場へ戻って、机でおにぎりを食べながらメールを返す。
「公園で、ただぼーっとしたい」。そう思うことが増えていないでしょうか。ところが、いざベンチに座ってみると、スマホを取り出してしまう。帰ってからやることを、頭のなかで並べはじめてしまう。ぼーっとしたいのに、ぼーっとできない。
ここでは、公園でぼーっとすることが、なぜ休みになるのか。そして、なぜそれがこんなに難しく感じるのかを書いてみます。
1 ぼーっとしたいのに、ぼーっとできない
長く働いてきた人、家のことも人のことも引き受けてきた人ほど、「何もしない」が苦手です。何もしていないと、なんだか落ち着かない。時間をむだにしているような気がしてくる。
休みの日にベンチに座っても、頭のなかでは会議の段取りや、冷蔵庫の残りものや、親の通院の日のことが回りつづけています。からだは座っているのに、頭だけが働いている。
それは、あなたがせっかちだからではありません。何年も、そうやって周りを回してきたからです。「ぼーっとする」は、ずっと使っていなかった筋肉のようなもので、急に使おうとしても、すぐには動かないのだと思います。
2 公園でぼーっとすることの効果──「休んでいい」理由をひとつだけ
私たちがふだん使っている注意には、二つの種類があると言われています。
ひとつは、パソコンの画面や人の話に、意識して向ける注意。仕事や家事で一日じゅう使っているのは、こちらです。使えば使うほど、すり減っていきます。
もうひとつは、揺れる葉っぱや、流れていく雲や、水面のきらめきのように、こちらが頑張らなくても、ひとりでに目がいくものに向かう注意。環境心理学者のカプラン夫妻は、自然のなかでこの二つめの注意に身をまかせているあいだに、すり減った一つめの注意が回復していく、と考えました(注意回復理論)。
つまり、公園でぼーっと木を眺めている時間は、何もしていない時間ではなく、すり減ったものが戻ってくる時間です。後ろめたく思う必要は、どこにもありません。
3 ぼーっとするのに、コツはいらない
「上手にぼーっとしなくちゃ」と思った時点で、それはまた頑張ることになってしまいます。なので、ここに書くのは、コツというより「これくらいでいい」という目安です。
- ベンチは、木の近くを選べたら十分
- スマホは、かばんの奥にしまっておく。見てしまっても、それはそれでいい
- 何分、と決めない。立ち上がりたくなったら、そこでおしまい
- 考えごとが浮かんできたら、追い払わずに、そのまま流しておく
十月の初めなら、どこからか金木犀が香ってくるかもしれません。どこで咲いているのか、探さなくてもいい。ただ「あ、香った」と思うだけで、頭のなかの予定表が、ほんの少し閉じます。
4 雨の日の公園も、悪くない
公園でぼーっとするのは晴れた日のこと、と思われがちです。けれど、小雨の日の公園には、晴れの日とは別のよさがあります。
雨が降ると、土と葉のにおいが立ちのぼります。傘にあたる雨の音があるから、黙っていても間がもちます。そして何より、人がいません。屋根のある東屋があれば、公園をひとりじめできることもあります。
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5 まとめ
子どものころ、夕方の公園で、帰りたくなくてブランコに座っていたことはないでしょうか。漕ぐでもなく、ただ足をぶらぶらさせて、空の色が変わっていくのを見ていた。あのとき、私たちはたぶん、誰に教わるでもなく、ぼーっとすることを知っていました。
大人になって、それを忘れてしまっただけです。公園のベンチに座って、気づけば五分たっていた。そんな日がひとつあれば、今日はそれで十分なのだと思います。
木のそばで何もせずにいるうちに、すり減っていたものが、自分のところへ戻ってくる。その時間を林浴(りんよく)と呼んでいます。

