仕事帰り、駅までの道で、ふと足が止まることがある。街路樹のケヤキが、夕方の風に葉を鳴らしている。急いでいたはずなのに、なぜかしばらく見上げてしまう。家に帰れば夕飯の支度が待っているのに、その数十秒だけは、頭のなかが静かになっている。
木を見ると落ち着く。そう感じたことのある人は、きっと少なくない。けれど、それを誰かに話したことはあまりないのではないだろうか。自然が特別好きなわけでもないし、山登りをするわけでもない。ただ、なんとなくほっとする。それだけのことだから。
ここでは、その「なんとなく」の中身を少しだけ見てみたい。理由がわかると、あの数十秒を、もう少し自分に許してあげられるかもしれない。
1 落ち着くのは、気のせいではない
1984年、アメリカの病院でこんな記録がまとめられました。同じ手術を受けた患者さんを、病室の窓から木が見える人と、レンガの壁しか見えない人に分けて比べたところ、木が見える部屋の人のほうが、退院までの日数が短く、強い痛み止めを使う回数も少なかったのです。
日本でも、森の景色を眺めているときは、街の景色を眺めているときよりも、ストレスを感じたときに増えるホルモンが少なくなる、という研究が重ねられてきました。
どれも「木を見れば元気になる」という話ではありません。ただ、木の前で肩の力が抜けるのは、あなたの気のせいでも、気分の問題でもない。からだが、ちゃんとそう反応しているということです。
2 木を見ているとき、頭は何もしなくていい
私たちのまわりにあるものは、ほとんどが直線でできています。ビルの角、道路の白線、机の縁、スマホの画面。そして、そのどれもが、何かを読み取るように求めてきます。信号の色、メールの件名、明日の予定。目に入るたびに、頭は小さく働き続けています。
木は、そうではありません。枝は一本ずつ違う方向に伸び、葉は風のたびに勝手に揺れます。どこを見なければいけない、ということがないのです。目はただ、揺れる葉を追っているだけ。そのあいだ、考えることで張りつめていた頭は、少しだけ手を離すことができます。
「休んでも、頭が休まらない」と感じている人ほど、この感覚は大きいのかもしれません。何かをして休むのではなく、何もしなくていい時間が、木の前には自然とできています。
3 昔の人も、木のそばで休んできた
江戸時代の街道には、一里(約4キロ)ごとに「一里塚」という目印の塚が築かれ、その上には榎や松が植えられていました。長い道を歩く旅人は、その木陰で足を止め、ひと息ついたといいます。
神社の境内に大きな木が残っているのも、昔の人が、長く立ち続け、夏には木陰をつくり、冬にも緑を保つ木を選んで植えてきたからです。木のそばで休むことは、私たちが思いついた新しい健康法ではなく、ずっと昔から人がしてきたことでした。
4 近くの一本を、見に行ってみる
遠くの森まで行かなくてもかまいません。
- 駅までの道の、いつも通り過ぎている街路樹
- 近所の公園の、ベンチの横の木
- 台所の窓から見える、隣の家の庭木
- ベランダの、小さな鉢植え
見上げる時間は、ほんの少しで十分です。葉の色が変わってきたな、今日は風があるな。そう思うくらいで、もう木の前の時間は始まっています。
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5 まとめ
子どもの頃、校庭の隅の大きな木の下で、友だちを待っていたことはないだろうか。木の幹に背中をあずけて、葉のすきまから光がちらちら落ちてくるのを、ただ眺めていた。あのときは、落ち着くとか、休むとか、考えもしなかった。
大人になって、木を見ると落ち着くと感じるのは、たぶん、あの頃の感覚がまだからだのどこかに残っているからだと思う。忙しい帰り道に、ふと足が止まったら、それはからだが少し休みたがっている合図なのかもしれない。そのまま、何十秒か見上げていてかまわない。
そういう時間のつくりかたを、林浴(りんよく)と呼んでいます。


